

令和6年、連載50周年を迎えた『三丁目の夕日』。
奇しくも、かつて都民の重要な交通手段の役割を担ってきた東京都電車(都電)が、運転系統が荒川線だけになってから50年となる。作中でも何度か描かれてきた都電、そして自身の漫画家としての歩みを、西岸良平氏に回顧していただいた。

三丁目の夕日 HISTORY


↑単行本第1集(『プロフェッショナル列伝』)のカバー画。夕空を見つめる父娘は、後に登場する茶川さんと淳之介君を彷彿させる。
遠ざかる〝昭和〞。いまもそのぬくもりを
感じさせてくれる『三丁目の夕日』と「都電荒川線」。
〝三丁目〞のレールは、
まだまだ先へと続いている。
連載50年。今号で通算1057話を数える『三丁目の夕日』。これほどまでに長く数多く短編読切を送り続ける作品は、この先出ることはないだろう。
『三丁目の夕日』の単行本は、〝夕焼けの詩〞がメインタイトルで、〝三丁目の夕日〞がサブタイトルの形で刊行されている。
「最初は1〜3巻が同時発売だったんですよ。あまり人気がなかったから?(笑)」
そう振り返る西岸氏は、昭和47年(1972年)の第8回ビッグコミック賞(現在の小学館新人コミック大賞)で『夢野平四郎の青春』(単行本第2集に収録)という作品で佳作入選。翌年、当時「ビッグコミック」の増刊だった「ビッグコミックオリジナル」で『プロフェッショナル列伝』を連載、そして翌昭和49年(1974年)に『三丁目の夕日』が連載開始となった。単行本1、2集は『プロフェッショナル列伝』と当時雑誌掲載された読み切り作品を収録、3集目からが『三丁目の夕日』となっている。
その『三丁目の夕日』と同じく、今年50周年を迎えるのが「都電荒川線」だ。明治44年(1911年)、東京市が東京鉄道株式会社から路面電車事業を買収し、東京市電気局として開業したことを起源に、関東大震災、第二次世界大戦における空襲も乗り越え、都民の足としての役割を果たした都電。最盛期の昭和18年(1943年)には、一日平均193万人が利用し41の運転系統が運行されたが、モータリゼーションの浸透、昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催に向けた道路整備の流れに飲み込まれ、都電荒川線だけを残して撤去されることになる。
今となっては荒川線沿線を除いて、かつての面影は失われてしまった都電。
『三丁目の夕日』では、今号掲載の「都電沿線」も含め、「父さんのチンチン電車」(単行本第3集収録)、「都電通り」(単行本第17集収録)、「追憶」(単行本第47集収録)、「暴走都電」(単行本第49集収録)、「勝鬨橋」(単行本第61集収録)といった都電をモチーフにしたエピソードが描かれており、作中で往時の情景を窺い知ることができる。
「幼いころの都電の思い出と言えばチンチンという懐かしい音、手動式ドアのクランクがむき出しで怖かったこと。今思えば都電が走る街の風景は懐かしいけど、路上に張り巡らされた架線は結構うっとうしいもので、とくに広い交差点の上は蜘蛛の巣状態でした」
今も西岸氏の脳裏に残る情景は、今号掲載の「都電沿線」の作中にも反映されている。
「まだ照明が少なかった暗い夜、交差点を通過する都電のビューゲルから火花が散るのが花火みたいできれいでした」
そんな光景も、かつては東京の風物詩だったであろう。
「中高生のころは、時間はかかるけど一系統どこまで乗っても均一料金だったのが気に入って小遣い節約のため、たまに利用していました。ただ、この時期からの都電の記憶は、ほとんどが都電が走る街の思い出です」
都電に乗って出向いた街、そこでの出来事が一つの記憶として刻まれている。
「池袋東口の都電通りに『人生坐』という古い映画館があって、そこで昔の名画をよく観ていました」
「人生坐」は戦後間もない昭和23年(1948年)に開館した名画座だったが、昭和43年(1968年)に閉館された。
高校時代の友人2人の影響で、漫画を描くようになったという西岸氏。
「大学生のころ、新宿二丁目の都電通り裏に、『コボタン』という漫画家志望の若者が集まる喫茶店があって、よく行っていました。都電がなくなったのは大学卒業のころです」
『ガロ』(1964年創刊)、『COM』(1967年創刊)といった新しい漫画雑誌の登場により、漫画表現の幅が広がっていった時代。その喫茶店で知り合った友人たちから刺激を受け、また、大学で知り合い、漫研を一緒に作った友人からカット描きの仕事を紹介されるなどしたことが、次第に西岸氏をプロの漫画の世界へ導くこととなった。
「その漫研で知り合ったのも、デビュー作以来ずっと漫画の製作を助けてもらっているネコさん(妻)でした」
作画協力者としても西岸作品を支えている夫人との縁も、極論すれば都電によって繋がったと言えるのかもしれない。
「こうしたいろんな人との出会いが、僕を漫画家にしてくれたんだと思います」
昭和、平成、令和と、時代を跨いで半世紀。『三丁目の夕日』も「荒川線」も、まだまだ新たな先の道へと続いてゆく。
『三丁目の夕日』で描かれた都電①
◉父さんのチンチン電車(ビッグコミックス第3集収録)


車のセールスマンの主人公のもとに姉から、都電の運転手を30年勤めた父親の定年退職祝いの誘いの電話が入る。忙しいからと言って誘いを断るが、移動中の車が故障して止むを得ず都電に乗ることに…
『三丁目の夕日』で描かれた都電②
◉都電通り(ビッグコミックス第17集収録)


出版社でアルバイトをしている都電沿線に住む大学生。彼が住むアパートの隣の部屋には、漫画家志望の若者が住んでいた。ある日2人は偶然、アルバイト先の出版社で鉢合わせするが…
『三丁目の夕日』で描かれた都電③
◉追憶(ビッグコミックス第47集収録)


旦那さんと2人の子と幸福に暮らしている主婦。彼女は大学時代、当時付き合っていた恋人が住むアパートに都電で通い、大学の寮の門限までの時間、逢瀬を重ねていたが…
『三丁目の夕日』で描かれた都電④
◉暴走都電(ビッグコミックス第49集収録)


事故に遭った鈴木オートの得意先のお見舞いに、一平君とお母さんは都電に乗って出かけることに。その帰り道、運転手が失神してしまい、急坂の下りで電車が暴走してしまう…
『三丁目の夕日』で描かれた都電⑤
◉勝鬨橋(ビッグコミックス第61集収録)


築地と月島を結ぶ跳開橋(跳ね橋)、勝鬨橋。息子に橋が開くところを見せようと日曜日に出かけることにした、ある3人家族。実は母親には、勝鬨橋にまつわる忘れ得ぬ思い出が…
都電の追憶。
ーー都電を描き続ける一人の漫画家の心。
20年以上にわたり、都電がある風景を描き続けている人物がいる。
漫画家・うゑださと士氏。200点ほどもあるという氏の作品は、もはや資料的な意味合いでも貴重だ。数多ある作品の中から、
ほんの一部を紹介させていただき、氏の都電への思いを聞いた。

「僕は西岸先生の大ファン。過去に日本漫画家協会賞を西岸先生と一緒に頂いたことがあるのですが、それが僕にとっては自慢のひとつなんです!」
そう語るのは、 漫画家のうゑださと士氏だ。
レトロな画風が人気で、色紙画『懐かしい昭和30年代』で脚光を浴び、 『昭和の神田っ子』等の著作も出している。
平成21年(2009年)の第38回日本漫画家協会賞で、西岸氏が『鎌倉ものがたり』で大賞を受賞した際に特別賞を受賞したのが、うゑだ氏だった。
うゑだ氏のライフワークとも言えるのが、〝都電を描く〞こと。20年以上続けていて、すでに200枚ほどの作品を描いている。
「僕はリアルタイムで都電に乗っていた世代ですから、いろんな場所に運んでもらいました。 乗り心地が良くて、 ついうたた寝をしちゃうんです。 道路の真ん中を堂々と走っていて、まさに〝道路の主役は都電〞でしたね。でも、地下鉄が出来て利用者が減り、車を渋滞させるってことで消えていくんです」
昭和42年(1967年)に路面電車の廃止が決定し、東京の街から都電がどんどん姿を消していった。失った風景を取り戻すかのように、うゑだ氏は都電を主役にした絵を描き始めたのだった。
「絵を描く時は、背景のロケーションを決めて、その上に都電を乗せるイメージ。絵で描くからこそ分かるんですが、都電があると、絵の存在感や迫力が違うんです。 絵がしまる。都電は車両のナンバーが大事なので、ナンバーまでしっかりと描くのが、僕なりのこだわりです」
うゑだ氏が描く都電は評判が良く、過去には展示会が何回も開催されている。都電の何が、それほどまでにうゑだ氏を惹きつけるのだろうか。
「都電というのは、機械でありながら、どこか人間臭いんですよ。変な話、都電にも表情があるんです。僕は漫画家だから、そういう表情に惹かれます。皆さんには、この絵がただの風景画に見えるかもしれませんが、僕にとっては、都電の表情を描いた、人物画でもあるんですよ。これは都電に感情移入をした僕にしかできないことじゃないかなぁ」
東京から姿を消した都電だが、うゑだ氏の頭の中では、当時の輝きを保ったままの姿で、いまだに走り続けているのだろう。

霞が関の一角にあるのが、警視庁の旧庁舎。上層部が円形に なっている特徴的なデザインで、 昭和6年(1931年)から昭和52 年(1977年)まで使用された。警視庁創立100周年を記念し、昭和 55年(1980年)に現在の新庁舎となった。警視庁旧庁舎という、日本の治安の象徴を背景にすると、都電の凛々しさが際立って見える。イラストの右下には、警察官の姿も描かれている。

日比谷方面へ向かう6系統の都電。 渋谷から新橋区間で田村町 一丁目の停留所に都電がやって来た様子を描いている。ビルに は『TOKYO1964』の垂れ幕が飾られている。1964年の東京オリンピックは、戦後の日本を変えた国家プロジェクト。オリンピックに 合わせて交通機関も大きな変革を求められ、高速道路や地下鉄などの工事が一気に進んでいった。

四谷三丁目へと向かう都電のイラスト。33系統は、浜松町一丁目から六本木や青山エリアを進んでいくルートだ。イラストは雨のシーンになっているが、現在の都市バス同様、雨の日には都電の利用者も増える傾向にあった。昭和は現代と違って高い建物が少ない。そのため、いたるところから東京タワーを見ることができた。イラストには、飯倉町一丁目の都電の停留所が描かれている。

かつての都電のカラーで多くの人にとって印象深いのは、黄色と緑色であろう。こちらのモノクロ画像では分からないのが残念だが、緑色の車両(左側)と、黄色の車両(右側)が一緒に走ることもあった。左側の都電は11系統で、新宿~月島区間を運行していた。右側の都電は9系統で 渋谷~水天宮を運行。背景は銀座。森永ミルクキャラメルのネオン(地球儀ネオン)は、銀座の街のシンボルとして長年親しまれてきた。

うゑだ さと士
社団法人日本漫画家協会会員。昭和23年(1948年)生まれ。平成17年(2005年)頃から、昭和30年代をテーマにした風景画を作成。レト口な作風が団塊世代を中心に支持を得る。TV番組『ちい散歩」(テレビ朝日)でも紹介された
変わりゆく都会。
―― 都電が走っていた東京を振り返る。
都電が走っていた頃と今を比べてみると、東京という都市がどれほど変貌を遂げてきたかが浮き彫りとなる。そして、都心部の至る所で再開発は現在進行形で進められている。
・・・都電が走っていた時代の情景は、 『三丁目の夕日』の世界線を鮮明に彷彿させてくれる。
<三田>

写真:加藤省二/ アフロ 昭和42年(1967年)撮影
↑品川~三田間を走っていた都電。東京タワーをバックに走る情景は、昭和の東京の象徴と言えるのではないか。上の写真は国道15号線の札の辻歩道橋から撮影した今の景観。
現在

<銀座>

現在

写真提供:堀北忠正/アフロ 撮影:昭和42年(1967年)
昭和42年(1967年)の銀座の街中を写した歴史的な一枚。写真の都電は40系統であり、銀座七丁目~神明町車庫の区間を運行していた。繁華街の銀座はタクシー利用者も多く、都電による渋滞が問題視された地域だった。肩身 が狭くなった都電は、廃線の方向へと進んでいった。現在の銀座四丁目交差点から撮影した写真と比べると、昔も 今も街が賑わっているのが分かる。
<面影橋>

現在

写真提供:イメージマート 撮影:昭和54年(1979年)
新目白通り沿い西早稲田三丁目にある面影橋駅は、今も都電荒川線の停車駅として健在だ。写真は昭和54年(1974年)に面影橋付近で撮影されたもの。現在と比較すると、道路が拡張され通り沿いの建物はなくなり、風景は様変わりしている。往来 する自動車を他所目にマイペースで運行する都電に乗ってみると、都会の喧騒から解き放たれた気分に浸れるかもしれない。
<上野>

現在

写真提供:堀北忠正/アフロ 撮影:昭和42年(1967年)
上野駅南口付近にある、上野公園前の交差点付近から撮影をした一枚。上野駅は北の玄関口と呼ばれるほどで、都電など公共機関の利用者は当時から多かった。昔の写真を見ると、道路の真ん中に都電の停留所があることが見てわかる。写真左手には人気があった老舗レストラン『聚楽』があった。現在は移転しており、跡地は商業施設になっている。
<渋谷>

現在

写真提供:イメージマート 掲載:昭和43年(1968年)
渋谷ヒカリエ前のバス停留所付近から撮影。かつてこの場所には東急文化会館が存在した。映画館やプラネタリウムを併設した総合複合施設として人気で、若者のデートスポットとして有名だった。昭和31年(1956年)に開業した東急文化 会館は平成15年(2003年)に閉業。跡地には平成24年(2012年)から渋谷ヒカリエが開業した。写真に写っているのは都電の6系統で、渋谷駅~新橋区間を運行していた。
<淀橋>

現在

写真提供:近現代 PL/ アフロ 撮影:昭和38年(1963年)
中野坂上駅から新宿方面に徒歩5分程度進んだところにある淀橋。都電は14系統で、新宿~荻窪区間を運行。この写真は、昭和38年(1963年)11月30日のもので、この日が杉並線の最後の日となっている。荻窪行きの都電は外装にデザインが施された装飾電車として走っており、最後の姿を見ようと多くの人が見に来た。

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