

押見修造氏による『瞬きの音』第1巻が5月30日に発売され、続いて6月18日には伊奈子氏の『天女様がかえらない』第1巻が刊行予定。偶然にも同時期に最新作を世に放つこととなった両作家の対談が実現した。
TVドラマ化もされ大きな話題を呼んだ『泥濘の食卓』でも知られる気鋭の作家・伊奈子氏がいま会いたいと願ったのは、長年尊敬してきた押見修造氏。最新作『天女様がかえらない』で押見氏が推薦文を担当したことをきっかけに今回の対談がセッティングされた。
互いの作品をどのように読み解き、両作家の作品に通底する「家族」という存在をどのように捉えているのか。前編・後編の2回にわたり両者が描く「家族」の本質に迫る。
前編では、お互いの作品の印象や最新作について語り合ってもらった。
『瞬きの音』で暴かれる過去の記憶と感情
――お二人は今回が初めての対談ということで、まず伊奈子先生にお伺いしたいのですが、初めて読んだ押見先生の作品は何でしたか?
伊奈子: 『惡の華』です。高校生の頃、学校の近くでよく美術展が開催されていて、時間がある時によく行っていました。ある日、たまたま「ルドン展」が開催されていて、それを観賞した後に立ち寄った書店で『惡の華』が並んでいるのを見てまさか! と驚きました。10代の自分にとってすごく大切な作品になったので、あの時『惡の華』と出会えて本当に良かったと思っています。
押見: ルドン! 僕と同じような道を辿っていますね(笑)。
伊奈子: 押見先生の作品を読んでいると、普段は心の奥底にしまいこんで考えないようにしていた感情や過去の記憶が引っ張り出されるような感覚になります。特に私は、主人公の少年に共感することが多く、性格や考え方に自分と近い部分があるからか、読んでいるとこんなことがあったな…と色々思い出させられます。完全に同じ体験をしたわけではないのですが、同じような気持ちには何度もなったことがありますね。
押見: 僕も伊奈子先生の作品を読んでいるとき、そう感じることがよくありますよ。
伊奈子: 最新作『瞬きの音』も読ませていただいたのですが、今回は“ぼく”の語りから始まるので、つい息を止めて見入ってしまいました。実は私にも“ぼく”と同じように弟がいて、子供の頃は弟がずっと私にくっついていたんです。それが子どもながらにすごく気持ち悪かったと言いますか、両親は弟が私に何かしても「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と厳しく叱る…。そういったことも重なって、ずっと弟なんていないほうがいいと思っていました。
弟が体調を崩して入院をした時でさえも「いないほうがいい」と思ってしまって、『瞬きの音』を読んだ時にそんなことを思い出したんです。ずっと忘れていた自分の中の汚い、あまり知られたくない部分を暴かれたような感覚になって、もう目が離せなくなりました。

▲『瞬きの音』1話1ページ目のシーン
押見: ありがとうございます。そうやって読んでいただけると、描いた甲斐があったなと思います。これまで、弟のことだけはなぜか描けなかったんです。過去の作品では主人公が一人っ子であることが多く、主人公や別の登場人物に弟の要素を入れて描くことはあっても、弟を単体で描くことはありませんでした。だからこそ、今回は弟をそのまま描きたくなったんです。フィクションを織り交ぜて描くのは『血の轍』でやり切ったので、今回はノンフィクションとして描こうと。
実は、本作を通して漫画家として壊れたい気持ちがあるんです。それで壊れ切ったら“終わり”という感覚です。そういった理由で、僕はもうフィクションは描けない体になりつつあると感じているので、伊奈子さんにどうやったらまたフィクションを描けるようになるのか相談したいです。そもそも、どうやって作品を作っているんですか? 特にキャラクターの行動やセリフのリアリティをどうやって作り上げているのか、非常に興味があります。
伊奈子: 自分の中から取り出していくことが多いです。だから、完全なバトルものや夢物語のようなお話はあまり思い浮かびませんね。読むのはすごく好きなんですけど。あと、接客業やクレーマー担当のアルバイトを沢山経験してきたので、色々な人の言葉に触れてきたからこそ、それが自分の中で積み重なり作品に活かされているのかなと思います。
押見: なるほど。ある意味、取材の賜物ですね。僕は取材に興味がないタイプなんですよね。バイトもほとんどしたことがなくて、昔とあるパン工場でバイトしたけど全然使い物にならなくて1日で辞めたことがあります。
伊奈子: え! 私も働いていました。洋菓子部門で苺のヘタをずっと取ってました…。2日で辞めましたけど。
押見: 僕も苺のヘタとってました(笑)辛いお仕事ですよね。
『天女様がかえらない』最初に伝えたかった“違和感”
――意外な共通点が見つかりましたが、押見先生は伊奈子先生の最新作『天女様がかえらない』を読まれてどんな感想を抱きましたか?
押見: 『天女様がかえらない』は、家族みんなでお風呂に入っているところから始まりますが、この最初のシーンからもう驚かされました。しかも、登場人物たちはそれを普通のこととして受け入れているんですよね。伊奈子さんの漫画は、側から見ると違和感のある状況でありながら、それを「普通だよね」と受け入れている人たちが多く登場しますが、特に『天女様がかえらない』はそのリアリティと1話に詰め込まれた要素の濃さがすごい。最初から“掴み力”が凄まじいなと思いました。

▲『天女様がかえらない』1話冒頭のシーン
伊奈子: 嬉しいです! やはり1話目で「こういう家庭なんだ」と読者さんに感じ取ってもらいたかったので、冒頭に絶対おかしいシーンを入れようと決めていました。連載が始まる前の企画書を書く段階から、このシーンは自分の中で固まっていたんです。
押見: キャッチーさを持たせたかったということですか?
伊奈子: そうですね。この家に住んでいる人たちはみんな成人しているのに、今でも一緒にお風呂に入っている。でも、誰もそれをおかしいことだと思っていない…。最初にこの「なんか違う」という感覚を、登場人物たちの名前や住んでいる場所よりも一番最初に読者さんに絵で感じ取ってもらいたかったんです。
押見: “パパ”の描き方も絶妙だと思いました。家族の中での当たり前のルールと言いますか、みんなが暗黙の了解として見ないようにしているところに、パパが思い切り胡座をかいている姿が印象的で。これは『泥濘の食卓』の男性キャラにも通じる部分があると思うのですが、読むたびに自分の父親や自分自身のことを思い出したりして、複雑な気持ちになります。それでもどこか「かわいくもある」という部分もあって…。
伊奈子: パパは「クレヨンしんちゃん」の野原ひろしをイメージして描いたんです。“アニメのパパキャラ”って実際にいたらどういう感じなんだろうと考えながら。
押見: しんちゃんとひまわりが成長して大人になっても、パパキャラがそのままだったらどうなるんだろう? ということですよね。実際にいたら結構辛いですね。
伊奈子: そうなんです。3人の娘たちはほぼ成人しているけれど、パパはママが失踪したショックで心を病んでしまい、その影響で彼女たちをいつまでも子供のように接している…というキャラなので。もちろん、「クレヨンしんちゃん」のひろしは大人としてしっかりしているし、かっこいいキャラで私も大好きです。でも、靴下を顔に近づけてふざけたりするのも、しんちゃんが5歳、ひまわりが0歳だからまだ分かるけれど、大人になってもずっとそれをやり続けられたらちょっと辛いかもなって(笑)。
“家族の呪い”を異なる視点で掘り下げる
押見: 伊奈子さんは、今回の『天女様がかえらない』はもちろん、『泥濘の食卓』でも“家族の呪い”のようなものを描かれていて、やはり視点が僕とは違って女性側に立っているため、その部分にすごく刺激を受けます。思考の道筋が異なる、というのでしょうか。例えば、作中では照茉莉が「お父さんのお世話をちゃんとしなければ」と使命感を持って進んでいきますが、もし照茉莉が男性だったら、お父さんから逃げたり、もう少し違う道筋をたどるのではないかと思います。
それこそ『血の轍』では、主人公・静一が「自分がママを支えなきゃ」と思うものの、気持ちに寄り添うことはできても具体的に何もできない…。対して、照茉莉は経済的な面や家族全体のバランスを考えながら、計画的に物事を進める力があります。自分はどうしても男性側から物事を見がちなので、伊奈子さんの作品を読むと、女性側の目線の解像度が上がるような感覚があります。
伊奈子: 女性と男性の違いについてはあまり意識したことはなかったのですが、幼い頃から家のなかで男女の役割みたいなものがあったことを思い出しました。例えば、親戚の集まりがあったとしたら、 男性たちはずっとお酒を飲んでいるけれど、女性たちはキッチンに立っていて休むことなくお料理を作り続ける。そういった光景を幼い頃から見続けてきたので、“女性の役割”みたいなものが染み付いているのだと思います。もちろん、そんなものはおかしいと頭では理解しているけれど、もしも自分が照茉莉だったら役割に囚われて家を守ろうと自然に動いてしまうだろうなと。

▲思い悩む照茉莉
――作中では、照茉莉たちの複雑な家庭環境と対照的に、雄大な富士山の景色が描かれているところも印象的です。
伊奈子: 物語の舞台は静岡の富士市です。富士山の麓に位置するため、どこにいても富士山が美しく見えるのですが、その反面「常に富士山に見られている」という感覚があり、私には少し怖く感じたんです。というのも、私の母や祖母はしつけが厳しく、食事や歩き方、姿勢など、幼い頃から常に誰かに見られている感覚があり、いつも「正さなければ」と思っていました。その母と祖母の目線と、富士山の視線が重なったんです。この感覚が毒親を描く上でリンクしていると感じて、物語の舞台に選びました。
押見: 面白いですね。富士山をそう描く人ってあまりいないと思います。
(後編へ続く)
取材・文/ちゃんめい
対談後編は
6月15日(日)公開予定です。
『瞬きの音』 を読む。▼
https://bigcomics.jp/episodes/530a9fc2c7fac/
『天女様がかえらない』 を読む。▼
https://bigcomics.jp/episodes/777f80005f25e/
著者プロフィール
押見修造(おしみしゅうぞう)
1981年生まれ、群馬県出身。漫画家。2002年『真夜中のパラノイアスター』でデビュー。
代表作に『漂流ネットカフェ』(双葉社刊)、『アバンギャルド夢子』、『惡の華』、『おかえりアリス』(講談社刊)、『血の轍』など。
「ビッグコミックスペリオール」にて『瞬きの音』を連載中、コミックス1巻は2025年5月30日に発売。
伊奈子(いなこ)
愛知県出身。漫画家。2016年『悪い夢だといいのにな』が第75回ちばてつやヤング部門大賞を受賞。
連載デビュー作品である『泥濘の食卓』(新潮社刊)はTVドラマ化もされ、大きな話題を呼んだ。

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